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「印刷モノ」をレビューする! 第6回:「サラマンダー ―無限の書―」 前編

印刷が物語のキーになる#印刷モノのレビュー、第6回になります。
今回ご紹介するのはカナダの作家トマス・ウォートン著、宇佐川晶子訳の『サラマンダー ―無限の書―』です。それではあらすじからどうぞ。

「サラマンダー ―無限の書―」あらすじ

1759年、イギリスとフランスはカナダの領有をめぐってケベックのアブラハム平原で軍隊を衝突させていた。フランス軍のブーゲンヴィル中佐が爆弾で荒廃したケベックの街をさまよっていると、燃え残った本屋の中に蝋燭の明かりがゆらめくのを見つける。建物の中に入ると、一人の女性がたたずんでいた。女性はフランス語を話し、中佐にしばらくとりとめのない話をしたが、あるとき本屋の中に一冊だけ戦火を逃れた本があると話す。それはどんな本なのかと中佐が尋ねると、それを語るためには、はじめにとある不思議なお城の話をしなければならない、と女性は答える。中佐は女性の話に聞き入っていく……

スロヴァキアのオストロフ伯爵は言葉遊びやなぞなぞ、パズルの類を熱心に蒐集する風変わりな貴族だった。オスマン・トルコとの戦争で息子を亡くして以来、娘のイレーナとともに領地の城に引きこもって生活を続けていた。

とある思い付きから、伯爵は職人に命じて城全体を機械仕掛けで改造してしまう。部屋や家具・階段が鉄のレールに乗って絶えず移動する奇天烈な城のなかで、伯爵がひときわ心血を注いでいたのは図書館だった。ギリシャの古典から珍奇な本まで数々を日々蒐集して本棚に収め、その管理をイレーナに任せていた。

あるとき伯爵は、城に届けられた本のなかに珍しい仕掛けがなされたものを見つける。伯爵は自身の最大の野望をかなえるべく、その本をつくったロンドンの活版印刷工フラッドを城に呼び寄せる。伯爵の野望とは「始まりも終わりもない、無限に続く本」を手に入れることだった。

フラッドは印刷機をふくむ仕事道具一式とともに城に住み込む。フラッドは伯爵から指が12本ある少年ジンと、亡くなった伯爵の息子そっくりに作り上げた機械仕掛けの人形を助手につけられ、伯爵の要望をかなえるべく試行錯誤を続ける。イレーナはフラッドの仕事に興味を持ち、彼の仕事の助けとなりそうな書物を図書館から選り抜いて毎日彼の仕事場を訪れていた。いつからか、二人は恋仲となる。

フラッドとイレーナの関係が伯爵に露見すると、伯爵はフラッドを地下牢に閉じ込めてしまう。フラッドが牢を出ることができたのは11年後、パイカと名乗る見知らぬ少女が牢を訪れたときだった。彼女は自身をフラッドの娘だといい、伯爵はすでに亡くなったとフラッドに伝える。

フラッドはパイカとともに、無限に続く本の作製に再びとりかかる。パイカは徐々に自身の過去をフラッドに語るようになるが、フラッドはパイカが普通の人間ではないことに気づいていく……

印刷モノポイント

謝辞によると、著者のトマス・ウォートンはこの作品の執筆にあたり、印刷関連の文献をいくつか参照したようです。そのかいあってか、タイトルにある「無限の書」やフラッドの職業である活版印刷工以外にも印刷絡みの要素が作品の各所に見つかります。あるときは堂々と、あるときはそれとなく……彼がちりばめた印刷ネタを見ていきましょう。

変わった名前

まず取り上げておきたいのは、フラッドとイレーナの娘の名前であるパイカ。これは西洋の活版印刷に使う活字のサイズの名前“pica”からとられています。

現在の欧文組版では文字の大きさは「ポイント」で規定されていますが、ポイント制が導入される以前は活字のサイズにそれぞれ固有名詞がついていました。ポイント制についてはややこしい! 文字の大きさたち 「ポイント」編をご参照ください。さて、ポイント制以前の活字のサイズの名称をまとめてみました。

こうして並べていくと、なんだか秘密組織の構成員のコードネームめいた雰囲気がありますね。パイカとはおよそ現在でいう12ポイントにあたる大きさを指していました。

なお、前掲の「ポイント」の記事でも触れていますが、日本語の組版におけるふりがなをさす「ルビ」という単語は5.5ポイントのrubyに由来しています。

では、なぜ活字のサイズを娘の名前に付けたのか? 命名の由来になったと思われるシーンはこちら。イレーナがフラッドの仕事を見学したときの会話です。

―――
 イレーナは最初の希望どおり、ときおり立ちよってはフラッドの作業を見守った。フラッドはジンが植字台に向かう場面から、原稿をきちんと並んだ活字の列に組むところまで、さまざまな段階をイレーナに見せた。活字箱の仕切りの上で踊るジンの指を見ながら、サイズによって活字の名称がちがうことをイレーナに教えた。もっとも小さな六ポイントの活字はノンパレル。本の中でいちばんよく使われるのは、十ポイントロングプリマ―十二ポイントパイカ
「でもぼくはスモールパイカのほうが好きですね。ときには“哲学”と呼ばれることもあります」
「スモールパイカ、別名“哲学”。女主人公が出てくる小説の題名のようですわね」
―――
トマス・ウォートン著、宇佐川晶子訳.「サラマンダー ―無限の書―」.早川書房(2003)、p.69

この作品の時代設定は18世紀ごろ。ちょうど「ポイント」の単位が登場した時期と重なります。このときの会話がきっかけになり、イレーナはフラッドと自身の娘に「パイカ」と名付けたようです。恋人の仕事道具から名前を取るとはロマンティックですね!

ただ、”pica”には他にも「カササギ」「異食症」の意味があります(後者はカササギがなんでも食べるといわれることから)。そういうわけで、パイカは幼少時代に周囲からからかわれることも多かったようです。キラキラネームとはいかないまでも、人名としては不向きだったのかもしれません……。

ただの比喩表現に見えて、実は……

さきほど引用した場面を経て、フラッドとイレーナは距離を縮めていきます。機械仕掛けによって城のすべての家具が動き回るなか、2人はとある夜に待ち合わせの約束をしました。2人が落ち合うシーンにも、さりげなく印刷になぞらえた表現がされています。

―――
「今夜、時計の針が三時十五分をさすとき、わたしのベッドがあなたのベッドの横を通過します」イレーナはやっとのことでそれだけささやいた。
 彼女はきびすを返し、今きた道をもどっていった。フラッドは凍りついたようにじっとしていたが、やがて手を伸ばし本の表紙をおおった。
 その夜、大時計の時報が城の隙間風のはいるホールにひびきわたると、フラッドはシャツとズボンに裸足の恰好で、ガレー船に躍りこむ海賊のようにイレーナのベッドに飛び移った。
―――
同上、p.104

ここで注目したいのはガレー船に躍りこむ海賊のようにという比喩表現。マーク・トウェインの『不思議な少年 第44号』を取り上げた記事でもご紹介しましたが、英語でいうガレー船:galleyにはもう一つ「活版印刷で用いる活字を入れる木製の箱」という意味があり、日本語でいう「ゲラ」の語源にもなっています。ただの喩えではなく、フラッドが活版印刷工であることにかけているのですね。

最大の印刷ネタは……後編にご期待ください!

登場人物名に印刷、比喩表現にも印刷、トマス・ウォートンはこれでもかというほど見事に「印刷」をこの作品のあちこちに組み込んでいます。

ただ、彼の仕込みはこれだけではありません。最大にして最重要の印刷ネタがもう一つ眠っています……。続く後編ではこれをご紹介していきますね。作品の根幹かつさまざまなポイントにつながるものなので、わかった瞬間とてもすっきりすること間違いなしです!

後編の記事はこちらよりご覧ください。

書誌情報

トマス・ウォートン著、宇佐川晶子訳.「サラマンダー ―無限の書―」.早川書房(2003)

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