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印刷が物語のキーになる#印刷モノのレビュー、第7回を迎えました。

今回ご紹介するのはブレット・イーストン・エリス著、小川高義訳のサイコホラー小説『アメリカン・サイコ』です。2000年に映画化された作品ですが、最近になって劇中のとあるシーンで主演のクリスチャン・ベールが見せた表情を真似る❝sigma face❞というミームがTikTokで生まれたこともあり、ご存じの方も少なくないのではないでしょうか。

それではあらすじをどうぞ。

「アメリカン・サイコ」あらすじ

舞台は1980年代のアメリカ、ニューヨーク。主人公のパトリック・ベイトマンは自身の父親が社長を務める大手の投資会社に勤務しており、将来を約束されたエリートだった。一等地のマンションで高級な家具に囲まれて生活し、クローゼットにはブランド物のスーツが並ぶ。毎朝ストレッチと手の込んだスキンケアを欠かさず行い、朝食のコーヒーはカフェインレス。健康づくりにも隙がない。

職場の同僚もまたベイトマンと同じような趣味嗜好を持つ者ばかりだった。みな髪型はオールバック、スーツは高級品で、遠目ではお互いの区別がつかないほどだった。彼らは自身の社会的ステータスを誇示することに躍起になっており、行きつけのレストラン、社会問題への関心などを毎日のようにひけらかして競い合うのだった。

一方で、ベイトマンには裏の顔があった。彼は殺人を犯すことに快楽を感じており、その気になれば娼婦やホームレス、野良犬などなんにでも手をかけるほどであったが、職場ではそれをひた隠しにして過ごしていた。

ある日ベイトマンは同僚たちとのランチのさなかに自身の新しい名刺の出来栄えを自慢した。ところが、同僚たちが持っていた名刺はベイトマンのそれより豪華なものばかりで、ベイトマンは狼狽する。面子をつぶされたベイトマンは突如レストランで大声をあげ、同僚の一人が注文しようとしていたピザをこき下ろしてしまう。

ベイトマンには特に気に食わない同僚がいた。名はポール・オーエンといい、自分と同い年で仕事でもプライベートでも目立つ存在だった。そればかりか、ベイトマンのことを別の同僚だと勘違いして話しかけてくるありさまで、ベイトマンは彼にたいそう腹を立てていた。

ベイトマンはオーエンを食事に誘い、酩酊状態にさせてから自宅に招き入れる。オーエンがベイトマンの家の調度品を品定めしている隙に、ベイトマンはレインコートを羽織り、斧を手に取って力いっぱいオーエンに振りかぶる。

ベイトマンが職場の人間を殺したのはこれが初めてのことだった。彼の猟奇的な行動は歯止めがきかなくなるなか、オーエンの死の真相を探る刑事があらわれる……。

印刷モノポイント

名刺でマウンティング⁉

さて、『アメリカン・サイコ』最大の印刷モノポイントはずばり名刺。名刺といえば社会人必携のアイテムですよね。

印刷業界では「企業や団体の事業活動に使われる印刷物」や「企業が広告宣伝、販売促進に活用する印刷物」のことを商業印刷と呼ぶのですが、名刺は代表的な商業印刷の一つです。ほかにも会社案内やカタログ、パンフレットなどが当てはまります。名刺や会社案内はある程度の規模の企業ならほぼ確実に必要になる印刷物なので、印刷会社の営業マンが新規開拓を考える際にまず当たりをつける印刷物でもあります。

では、『アメリカン・サイコ』において名刺はどんなかたちで取り上げられるのかというと……マウンティングの道具として登場しています。主人公のベイトマンと同僚とが互いの名刺を見せつけあい、だれの名刺が一番出来がよいかを競うのです。

ある日、ベイトマンは同僚の一人が超人気レストラン「パステルズ」に手際よく予約をとってみせたことに嫉妬し、話の流れを断ち切って同僚たちに自分の名刺を見せつけました。日本の企業では名刺というとたいてい皆おそろいの紙におそろいのデザイン、おそろいの書体でできあがったものが配布されますが、ベイトマンの勤める会社では社員ごとにちょっとしたこだわりを持ち込んでアレンジができるようです。こちらのシーンを見てみましょう。

―――
「何だそれ? 電報か」プライスは無関心ではない。
「新しいカード」私は何気なさを装うが、つい得意な笑いが出ている。「どう思う?」
「待て待て」マクダーモットが名刺をつまみ上げ、指でいじる。本当に感心している。「いいじゃないか。見てみろ」とヴァン・パッテンに回す。
「きのう印刷屋から持ってきたばかりだ」私は言っておく。
「クールな色だ」ヴァン・パッテンはカードをしげしげと眺めている。私は「ボーンホワイト」と言ってやる。「字はシリアン・レイルとかいう」
「シリアン・レイル?」とマクダーモット。
「ああ、悪くないだろ」
「じつにクールだぜ、ベイトマン」ヴァン・パッテンは用心深く言う。うらやましがりなやつだ。「だが、どうってことない……」彼は財布を取り出し、灰皿のとなりに名刺をたたきつける。「これを見ろ」
皆がのぞき込んで、とくと見る。静かにプライスが言う。「なるほど、これはいい」そのエレガントな色とクラッシーな文字を見た私の体を、びくっと羨望せんぼうが突き抜ける。私がこぶしを固めていると、ヴァン・パッテンが愉快そうに言う。「エッグシェル・ホワイトに、字体がロマリアン……」と、私に向かい、「どう思う?」
「いいね」私の声はのどから出るが、どうにかうなずいておく。ボーイが作り直しのベリーニを四杯持ってくる。
「すごい」プライスは酒に見向きもせず、名刺を光にかざす。「こいつは飛んでるな。おまえみたいな脳足りんが、こういう趣味だとは」
私はヴァン・パッテンの名刺と自分のを見比べているが、プライスがヴァン・パッテンに軍配を上げるのがわからない。くらくらした私が酒に口をつけ、深く息を吸う。
「おっと待った」プライスが言う。「まだ真打ちが出ちゃいねえぜ……」彼は内ポケットから自分のを取り出し、おおげさに表へ返して、われわれに見せる。「おれのだ」
 私でさえ、見事と思わざるを得ない。突然、レストラン全体が遠くに感じる。音がしない、かすかに騒がしいか、意味のない低雑音、このカードに比べたら――。すると、われわれはプライスの言葉を聞いている。「字を浮き彫りにして、色は薄めのニンバス・ホワイト……」
「うへぇー」ヴァン・パッテンが喚声をあげる。「見たことないぜ……」
「いいじゃないか、いいじゃないか」私は認めるしかない。「でも待てよ。モントゴメリーのを見せてもらうとしよう」
 プライスがさっきの名刺を取り出す。彼は平気なふりをしているが、その微妙なオフホワイトの色合いと、趣味のいい厚みに知らん顔はできないだろう。不意に私は、名刺ごっこを始めたことに気落ちする。
―――
ブレット・イーストン・エリス著、小川高義訳.「アメリカン・サイコ(上)」. KADOKAWA/角川文庫(1995)、p74-75

自分から得意げに話をはじめたのに、見事に返り討ちにされてしまったベイトマン。相当なショックを受けているのがわかりますね。さて、このシーンで登場した3つの名刺の特徴をまとめてみましょう。

ベイトマン
紙色:ボーンホワイト/書体:シリアン・レイル

ヴァン・パッテン
紙色:エッグシェル・ホワイト/書体:ロマリアン

プライス
紙色:薄めのニンバス・ホワイト/書体:不明(※文字を浮き彫り)

白は白でも

まずは紙のほうから見ていきます。あくまでフィクションのなかでの描写であるため正確な紙の種類はわからず、紙の色味について記載があるのみですが、やはり各々こだわっています。

3つについて辞書的な意味からたどっていきましょう。ベイトマンのボーンホワイト(bone white)とは、薄く黄色やグレーがかかった白のこと。一方ヴァン・パッテンのエッグシェル・ホワイト(eggshell white)は薄く黄色がかかった白を指します……ちょっと重複していますね。そして、最後のプライスのニンバス・ホワイト(nimbus white)は辞書では見つかりませんでした。nimbusは雨雲・雪雲をさす語なので、「雲のような白(?)」だと解釈しておけばよいでしょうか。

そもそもこういった色味の定義は少々あいまいなところがあります。もちろん色見本や用紙見本でそれぞれ定義されてはいますが、そういった見本じたいも各メーカーが微妙に異なった基準から製造しているものなので、同じ名前の色でも見本のメーカーが違えば違う色、というケースは起こりえます。

取り急ぎ上の3つすべてを網羅しているカラーサンプルを公開しているところがないかをざっと調べてみたところ、アメリカのPanolam Surface Systemsという建築資材の表面処理を請け負う企業のサイトが見つかりました。紙の色でないのがちょっと残念ですが、これをもとに3色を比較してみましょう。わかりやすいようにCMYKすべて0の純粋な白も下に並べ、スポイトツールで抽出した各色のCMYK値も書いています。

うーん、「白って200色あんねん」とはあながち誇張ではないのかもしれませんね。お使いのディスプレイによってはほとんど違いが認められないかもしれませんが、それぞれ若干異なる「白」になっています。

ではなぜこのシーンでプライスのニンバス・ホワイトに軍配が上がったのか? ここからは推測になりますが、おそらくニンバス・ホワイトが一番希少な色だから、ということなのではないかと思います。さまざまな塗料・表面加工のメーカーのカラーサンプルを集めたmyperfectcolorというサイトで3色それぞれを検索したところ、bone whiteは61件、eggshell whiteは5件ヒットしましたが、nimbus whiteは1件のみ。先述の辞書にも載っていない単語だということを考えると、まさに知る人ぞ知るという色味なのでしょう。

大事なのは書体ではなく……

では書体のほうはというと……実は初めの二つ「シリアン・レイル」と「ロマリアン」はどちらも実在する書体ではありません。そしてプライスの書体は不明なので、特筆すべきことはない……わけではありません!

ここで注目したいのは、プライスの名刺は文字が浮き彫りになっているということ。文字や絵柄を浮き彫りにすることをエンボス加工といいますが、これがプライスの名刺の一番のミソです。紙の印刷においてエンボス加工を行うには、まず浮き彫りにしたい文字や絵柄の部分が突き出た版(凸版)と、同じ部分がへこんだ版(凹版)の2つの版を用意する必要があります。そして紙を2つの版ではさんで強い圧力をかけると、表は隆起しつつ裏は凹み、浮き彫り部分ができあがります。

エンボス加工は浮き彫りによってできた陰影で文字や絵柄を表現するので、視認性という観点からするとあまり優れているとは言えませんが、逆に言えば視認性を犠牲にしてこそ実現する贅沢な加工だということですね。視認性を確保するのであれば、まず通常どおり印刷してインキを紙に乗せてからエンボス加工を施すという手もありますが、これはさらなる贅沢になります。というのも、インキが乗った部分と浮き彫りにする部分の見当(≒位置)をきっちり合わせなければいけないため、とても正確な作業が要求されるのです。

また、エンボス加工を行うとなれば紙にも気を配りたいところ。均一でつるっとした見た目の紙にエンボス加工を施すのも悪くありませんが、ぱっと見でもざらざらしているのがわかるような紙や、細かい不規則な凹凸・スジの入った紙にエンボス加工をかけるとまた違った味わいがあり……突き詰めていくとこだわりが止まらなくなりそうです。

どの書体を使うかという次元ではなく、まず文字の表現のかたちからこだわる。だからこそベイトマンはプライスの名刺に完敗を認めたわけですね。

なお、こちらのシーンは映画でも再現されています。登場する同僚が別の人物に変更されていたり、紙の色や書体なども小説版とは異なるものに置き換えられていたりしますが、やはり各人がバリバリにこだわった名刺がアップでとらえられており、一見の価値があります。映画のシーンは著作権の都合でここに取り上げるのが難しいのですが……興味のある方はぜひ映画版もご覧ください!

名刺にはぜひこだわりを!

今では名刺というと「データとしていかに効率よく管理するか」というところが重視され、名刺本体よりもその周辺のソフトやクラウドサービスに注目が集まりがちですが、やはり「自分や自分の会社を相手に印象付ける」という名刺の役割はこれからも残るはず。誰かに見せつけるまではいかなくても、やはり自信をもってスッと出せるような仕上がりの名刺を持ちたいところですよね。みなさまの会社で名刺をリニューアルする機会がありましたら、ぜひこだわりのつまったご要望を印刷会社にご相談ください!

書誌情報

ブレット・イーストン・エリス著、小川高義訳.「アメリカン・サイコ(上・下巻)」. KADOKAWA/角川文庫(1995)
※版元品切れのため、KADOKAWA様ならびに書店様へのお問い合わせはご遠慮ください

参考

“bone white”(Collins Dictionary)
https://www.collinsdictionary.com/jp/dictionary/english/bone-white

“eggshell white”(Collins Dictionary)
https://www.collinsdictionary.com/jp/dictionary/english/eggshell-white

Panolam Surface Systems社
https://panolam.com/

myperfectcolor
https://www.myperfectcolor.com/

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