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「印刷モノ」をレビューする! 第5回:「活字狂想曲」

印刷がキーになる#印刷モノのレビュー、第5回の記事をお届けします。

今回ご紹介するのは、倉阪鬼一郎著の『活字狂想曲』。表紙の画像でピンとくる方もいらっしゃるかと思いますが、「校正」がテーマの作品になっています。著者は印刷会社に校正者として勤務していたことがあり、職場での見聞を「暗阪」という名前で同人誌に投稿していました。この作品は、その投稿をエッセイのかたちでまとめたものになります。

エッセイなので、あらすじは短めにまとめておきますね。

「活字狂想曲」あらすじ

暗阪は自身を「現実不適応者」と称するほどのひねくれもの。大学院中退後はしばらく定職につかずにフリーライターとして生活していたが、収入は年収(!)にしてわずか14万円であった。暗阪はある日就職雑誌にて印刷会社が校正者を募集しているのを見つける。これなら自分でも務まりそうだと思い応募したところ、見事採用される。

入社以降、暗阪は校正者としてそれなりのパフォーマンスを上げていた。しかし、顧客や営業からの無茶な要望や、何かにつけて集団行動を重視する会社への反発から、暗阪の会社生活は屈折したものとなり、しだいに鬱憤をため込むようになる……

印刷モノポイント

「校正」とは

語り手の暗阪は印刷会社で校正の仕事をしています。一般に校正というと

文字や文章をつきあわせて比較し、誤りを正すこと
印刷物の仮刷り・試し刷りと原稿を照合し、誤字脱字や体裁の乱れを正すこと
測定器が示す値と真の値の関係を求め、目盛の補正などを行うこと

の3つがありますが、印刷会社で行われているのは上の2つ。出版社や制作会社、あるいは制作部を抱える印刷会社にはよく専任の校正者がおり、社内で組版した誌面のチェックを担当しています。ちなみに、一番下の「校正」は、計器類のメーカーなどで行われている作業です。キャリブレーションともいいますね。

校正の「校」という字はもともと「挍」と書き、「くらべる」「考えあわせる」という意味があります。そこから、「くらべあわせて誤りを正す」:校正という語が生まれました。上の3つの校正を改めてみると、どれもまず「くらべる」「照合する」ところから始まっていますよね。ただし、現在の印刷・出版業界で行う「校正」は、照合作業を行わずにゲラのみを見て誤りを正す「素読み」という作業も含むことがあります。

なお、校正とよく似た概念として「校閲」という作業があります。校閲がカバーするのは、文章内の事実関係の誤りや論理構成の矛盾、法令違反や差別などの不適切な表現を顕出してただすこと。2つの違いを端的に言えば、校正が見るのは表記や体裁、校閲が見るのは内容だということになります。

日本最古の校正職は……

記録上、日本における校正の歴史は奈良時代までたどることができます。当時の日本は仏教によって国を守る「鎮護国家」という思想のもとに、聖武天皇が様々な仏教政策を推進していました。

仏教の教えを広めるためには、経典が世に出回らなくてはいけません。そのため、経典を書き写して複製する「写経」が国家事業として取り組まれました。なかでも奈良県の東大寺写経所で行われた写経については、写経事業にまつわる様々な事柄が『正倉院文書』として記録されています。

この『正倉院文書』によると、実際に経典を書き写す職「経師(きょうし)」とは別で、写しの原本と経師が書き写した写本を比較して誤りがないかを確認する校生(きょうしょう)という職が定められていました。字や読み方が異なりますが、この「校生」が現在さかのぼれる日本最古の校正職です。

(写経 出典:Adobe Stock 212923060
(東大寺 出典:Adobe Stock 95800913

『正倉院文書』には写経に携わった者たちの仕事や生活の様子、果ては給与などの待遇の詳細まで記録されています。経師や校生たちは泊まり込みで働き、食糧と布・銭貨が歩合制で支給されていました。ただし職種によって待遇が若干異なっており、校生は経師よりも食糧の支給が少なかったとのこと。

ここで作品の話に戻りますが、学部卒・大学院中退の暗阪が校正者として印刷会社に入社した際、初任給はなぜか高卒扱いで計算され、基本給12万円+残業代であったとのこと。当時(1985年ごろ?)の大卒初任給が14万円ほどですから、やはりこちらも少々抑え気味の設定です。校正者の待遇が若干落ちるのは、奈良時代から続く伝統なのでしょうか……?

また、経師と校生の給与にはミスによるペナルティが設定されており、校生が校正の際にミスを見つけると経師の給与が減額される、初回の校正で校生がミスを見落とし、次の校正で発見すると校生の給与が減額されるなど、なかなかシビアに査定されていたようです。職場の雰囲気がピリつきそうですね。

校正者の言語「校正記号」

校正者は校正物をチェックし、誤りがあればそれを正す指示を入れなければいけません。このときに用いられるのが校正記号。訂正の内容によって様々な種類・書き方があるのですが、代表的なものをいくつか挙げてみましょう。

(※上に挙げたものはあくまで一例です。同じ修正内容でも異なった書き方をする場合があります)

なお、上の図でもそうですが、基本的に校正記号は目立つように赤文字で書くのがマナーとなっています。そのため、校正記号やその他の修正指示のことを「赤字」と呼ぶこともあります。

校正記号は出版や印刷関連の業界における共通言語であり、仕事の節々で用いられています。業界の人間であれば使いこなすのは造作もないこと!と言いたいことろなのですが、ごくまれにすれ違いが起きることがあるようで……作品内にはこんなエピソードがありました。

―――
 まぬけなオペレーターの話
 呉智英氏は写植のオペレーターだったらしいが、なかには果たして人間が印字しているのかと怪しまれるものもある。
 例えば、マレーシアの首都が「クアララルンプール」と打たれていたので、

 と赤字を入れたところ、「クアトルツメラルンプール」と印字されてきた。絶句した。
 また、「なんたらうんぬんこれこれ」というごくごく普通の日本語の文章があった。「うんぬん」をゴシックにせよという先方赤字が訂正されていなかったので、

 と赤字を入れたところ、「なんたらGこれこれ」と打ってきた。どうにも脳みそが溶ける。
―――
倉阪鬼一郎著.「活字狂想曲」.幻冬舎文庫(2003)、P23
※画像は筆者作成

「そんなバカな」と思わずつっこんでしまいそうですね。しかし、プロのオペレーターも所詮は人間。たまには勘違いや打ち間違いだってあります。それをカバーするのが校正者の仕事なのです。

なお、引用部のあたまに出てくる呉智英氏は日本の評論家で、この作品の中でも何度か引き合いに出されています。呉氏は新聞などで誤埴や言葉の誤用を見つけてそれを手紙で指摘する、というのが長年の趣味だとのこと。「すべからく」の誤用を指摘したことでも有名です。暗阪からすると、校正者として何かシンパシーを感じていたのかもしれません。

想定外の赤字

誤りを正すのが校正者の仕事ですが、ただ正しい日本語を知っていればよいというわけではありません。そもそも言葉の正誤は時代とともにうっすら移り変わるもの。暗阪も無縁ではいられませんでした。

―――
 ある歴史的瞬間
「ら抜き言葉」というものがある。見れる出れる来れるのたぐいである。これに違和感を覚えるか否かで世代がわかる。山本夏彦は数年前まで校正のおりに「ら」を入れていたが、世の趨勢には抗しがたく、ついにあきらめたという話だ。
 かく申す小生も若年寄だから、ら抜きにはなじめない。ある地方デパートのちらしの文章が都会でも用いない超軽薄体であるのに立腹し、片っ端から「ら」を入れるという越権行為をやったこともあった。
 さて過日、あるカタログのコピーに次のような赤字が入った。

「ら」を入れる赤字はたびたび目にするが、逆は初めてだった。しばらく呆然と赤字を見ていた。「あらたしい」が「あたらしい」に変わったように、いずれ「ら抜き」が常態となる。五十年後には、意固地な年寄りだけが不服を唱え、誰も耳を貸す者がないまま死んでいく。こうして言語と歴史は連綿と続いていくのである。
 壁の崩壊だの何だのといった大仰なニュースだけが歴史的瞬間ではない。日常に埋もれ気づかないだけで、それは人生の瑣事のなかに遍在しているのである。私もそのとき、小さな、あまりに小さな歴史的瞬間の目撃者だった。
―――
同上、P124-125
※画像は筆者作成

はじめに言及されている山本夏彦氏は週刊新潮などに寄稿していた随筆家です。彼も日本語の扱いについて一家言をもち、言語・文章に関するコラムで1冊の本ができあがるほどの人物でした。

さて、ら抜き言葉「を」直すのではなく、ら抜き言葉「に」直すという衝撃。暗阪の驚きが見てとれます。ただ、それと同時に日本語の映り変わりについてある種達観しており、ら抜きをあげつらう自分の頑迷さを客観的に見ているような様子でもあります。言い換えれば、こうしたアップデートに翻弄されるのも校正者の宿命なのかもしれません。

なお、このエピソードが書かれたのは1991年。では、2022年現在「ら抜き言葉」は正式な日本語となったかというと、そうでもない……というのが一的な見方ではないでしょうか。話し言葉であれば使われていても、ビジネスなどのあらたまった場面では避けるのがマナー、とされているのをよく見かけます。もし暗阪に今の状況について訊いてみれば、また違った所感を述べるのかもしれません。

校正者は「最初の番人」?

印刷物は完成までに制作・製版・印刷・製本加工とさまざまな工程があり、各工程で品質を担保することではじめて質の高い製品が生まれます。校正者は一番はじめの制作工程において品質担保を一手に引き受けるエキスパートであり、最後の番人ならぬ「最初の番人」を務める大事な存在なのです。

本や雑誌を手に取った際は、暗阪のような校正者の精励に思いを巡らせていただければ幸いです……!

ところで、実はこの記事の本文に誤植が5か所ひそんでいます。校正者になったつもりで、今一度記事を読みなおして見つけてみてください! 正解は、こちらからどうぞ。

書誌情報

倉阪鬼一郎著.「活字狂想曲」.幻冬舎文庫(2003)

参考文献

大西寿男著.「校正のこころ 増補改訂第二版――積極的受け身のすすめ」.創元社(2021)

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